校歌を大きな声で歌おう。
(校歌=一人ぼっちの応援団)
それは私のバレー人生の応援歌となった。
入学式の日1年E組私のクラス員になったOが職員室にやって来た。『バレーの経験はないが部に入れて欲しい』とのことだった。その日から彼はコートにたった。バレーシューズもなく体育館履きに体操着姿であったが、一生懸命ボールを追った。プレーは見るからに素人其のものであった。そんなOだが授業中の姿勢も良く予復習もかならずやりその真面目そうな風貌にクラス委員に選出された。
しかしある日彼について上級生の一人が私の所にきてこうささやいた。『先生、バレー部に入った先生のクラスのOだけど、あいつだけはよしたほうがいい、本当の悪だ。僕の中学の後輩だけど中学の時に万引きはするし、悪の限りをつくした。あいつの仲間も少年院に入っているようなやつらだ.』そして次々に彼のなした悪行を並び立てた・・・
しかし彼の生活ぶりを見る限りそれが本当とは到底思えなかった。
動きは不器用ではあったが相変わらず、一生懸命練習をした。体が硬いのかやたら床に体を打ち付けて、アザだらけであった。 あの上級生の言葉は全くのデタラメの様だった。変わったことと言えば、レシーブをし損ねてボールを顔にぶつけメガネを割り、それをセロテープではって、そのままかけたその姿のおかしさを皆に笑われたのだが、「そのうち直します」と言っていつまでもそのままでいたことであった。
しばらくの後、彼が私の下にやってきて『先生部費の500円もう少し待ってください。』と言った。
不思議そうな顔をしている私に、続けてこう言った。
『実は僕の家は事情があって母親一人で僕と,弟を養ってくれているのです。そのことで僕は一時ぐれていて、悪い人達と付き合っていました。悪いことも沢山しました。警察にお世話になったこともあります。当然高校なんかにいけないと思っていたので、授業もまともにうけませんでした。勉強もしませんでした。母親を泣かしてばかりいました。しかしこんな僕のために1月になって担任と母が『高校に行け』とこの高校に推薦してくれたのです。この学校は私立の高校なので授業料も高いと思うのですが、その上に自分が好きで始めたバレーの為にお金を出してくれと言えないのです。』こう言った。
私は体が震えた。メガネのわけも分かった。体育館シューズの件も分かった。そういえば練習後選手達が群がるジュースの自販機の前で彼を見かけたことがなかった。
彼のすべての行動が納得できた。
それから一ヶ月ほどたった頃また彼がやってきて今度は『先生、僕学校をやめようと思うのです。母は僕の為に昼だけでなく夜も働き始めたのですが、どうも無理がたたって体の調子が悪いようで、最近横になっていることが多いのです。学校をやめて働こうと思っています。』こう言った。
私は『でも君のお母さんは、君が高校生活を全うすることを望んでいるのではないか、奨学金のことも考えよう・・・.』こう言って、その場は思いとどまらせた。
それからの練習は何事もなかったように過ぎて行った。
そんな頃私は近づく試合の応援について冗談とも本気ともつかないようなことを選手達に言った。当時最強を誇ったS商やN高の校歌を歌っての応援をあげて
『うちも校歌で行こう頼むぞ、讃美歌393番だ』
私のその言葉に選手達は大笑いした。それは応援にはまったく似つかわしくないようなスローテンポな曲でありそのリズム感のない校歌を生徒に歌わせるのに我々は本当に苦労していたからだった。(S学園はキリスト主義の学校であったので校歌は讃美歌だった)
当然冗談のつもりだった。・・・絞りぬいた練習の後に和やかな雰囲気を作ることが常であったので無責任にも自分の言ったその言葉も忘れていた。
6月になりバレー部の最上級生にとって現役最後となるインハイ県予選の日が来た・・・・・・・・・・・3年生は朝から緊張していた。
いよいよ試合が始まったしかし選手達の硬さはとれなかった。苦しい戦いとなった。その時体育館に大きな声響いた『フレー,フレーS学園』その声の方を見ると。Oが体育館のドアーの格子にしがみついて一人で大声を張り上げているではないか。次に彼は大きな声で讃美歌393を歌い始めた。それは歌うというより絶叫にちかかった。
そして再び『フレー,フレー頑張れ頑張れS学園』と叫んだ。体育館にその声は鳴り響いた。体育館は一瞬その声に静まり返ったが、次の瞬間その場は事態を知った観衆の拍手に変わった。
私はうかつにもその時初めて、ベンチ入り出来ないのが彼一人だったことに気がついた。つま先から頭のてっぺんまで電気が走った。感激で身体が震えた。選手達の顔も紅潮しその勢いに押されて3年生は素晴らしい試合ができ、無事引退をすることが出来た。
まさに有終の美であった。
何もかも彼は心に決していたのだろう。
それから数日の後彼はまた私の前に立った『もう思い残すことはありません、こんな僕に毎日一生懸命バレーを教えてくれて有難うございました。やはり学校をやめようと思います。最近病院通いをしている母を見ていると、もう学校には来る事は出来ません』つづけて『弟は優秀で、真面目な男なので彼に勉強はまかせます』こう言いきった。中間テストの成績はクラスでも1,2番だったのでその事も伝えたが、彼は『勉強は面白くなってきた、良い友達も出来た、部活も苦しかったけど自信がついてきた・・・でも.今の僕は・・・。』と言った。結局彼の気持ちを変えることは出来なかった。
数日の後母親を校長室に呼んだ。母親は「折角入れて貰った学校なのに、本人が『勉強が面白くないのでどうしてもやめたい』と言うものですから」そう言った。
たまらず『お母さん・・・。』そう言い掛けた私を彼は目で制した。
その時雰囲気で母親はすべてが分かったのだろう。「O君ゴメンナサイ」後は涙で言葉にならなかった。退学意向の書類に判を押した彼を昇降口まで送った。
入学の時に買って貰ったのだろうよく磨き込まれた靴に足を通した彼に
『あの日の君の応援は忘れない、何時の日か必ず全国大会に行くから。その時はあの校歌を大きな声で歌うから』
そう言うだけで精いっぱいだった。
彼は母親とバス停に向かって足を進めた胸を張っていた。一度振りかえった、そして小さく頷いた彼は二度とこちらを向かなかった。
私の若き日の出来事である。
今でもあの時の彼のエールは私のそれからの人生に贈ってくれたものと信じている。
そしてあの校歌は私への応援歌であると思っている。
こんな人たちに私は励まされて生きている。
こんな素晴らしい思いが出来たから私はバレーを続けようと思う。
讃美歌393番
神の光は世のこみちの 暗き隅にも照り輝く・・・・・高き低きの隔てあらじ。
それからいろいろなことがあった、様々な思いの中、学校をかわった、当然校歌もかわった。
しかし生徒達がコートで歌う校歌を聞くたびにあの頃、あの日の素晴らしき生徒に恵まれて今の私があることを思う。