バレーボール界を活性化させるために

 人気低迷が囁かれて久しい感のあるバレーボールですが、草の根レベルでの活動はまだまだ盛んで捨てたもんじゃありません。その財産をどう活かし、トップレベルの活性化へ、ひいてはバレーボール界全体の活性化へと繋げていくか。非常に興味深い投稿を筑波大学体育科学系の技官でいらっしゃる松田裕雄さん(mail)から頂きましたので掲載させていただきます。

 松田さんがおっしゃるには「企業スポーツの崩壊,Vリーグ低迷の一方で高まるクラブスポーツといった状況に関する」投稿だそうです。強く関心をお持ちの方も多勢いらっしゃることでしょう。

 実はこちらの投稿は1年前にすでに頂いていたのですが、私たれいらんの手違いにより掲載が遅れていたものでございます。この場にて松田さんにお詫びを申し上げるとともに、掲載について再度快く許可してくださった松田さんに感謝いたします。

 それでは皆様御覧下さい! (byたれいらん)

〜意識改革から構造改革へ〜

 NTT,日立,東洋紡に続き,先日富士フィルムまでもが廃部発表をした.1年間でトップリーグ所属4チームが廃部になる異例の現象である.かつては「お家芸」と呼ばれ,「企業スポーツ」体制を主軸に,世界を圧巻してきた日本バレーボールにおいても,遂にその体制の耐用年数が完全に切れたといえる.「企業スポーツ」崩壊現象の流れは留まることを知らない.

 経済の高度成長の所産である「企業スポーツ」が,経済の長期低迷によって終焉を迎える.これは当然の帰結でもある.惜しむらくは1960年代からの約40年間,「先見の明」を持ったマネジメント(いわゆる“リスクマネジメント”)を行なうことが,チームや競技団体側に出来なかったことである.あまりに企業に依存し過ぎであった.自ら「資金」を「作る」作業を怠り,企業が用意してくれた「資金」を「使う」ことに専念していた代償とも言える.

 ではこれからどうすればいいのか?これは大きく二段階に分かれる.まずは,既存の意識や思考回路を根本的に正し,「健全な精神」にすべきである.そしてその時初めてそこに「健全なる肉体」即ちシステムを有する為の手段が見えてくる.本稿ではまず前者を視点とする.

 現在,「企業スポーツ」の存続を巡り,多くの議論が飛び交っている.国の「スポーツ振興基本計画」に乗じて,「企業スポーツ=文化」という構造から,企業の「社会貢献」,「スポーツ振興」,「文化保護」,等々.しかし,こうした項目はどれも企業側に「支援の意義」を理解させる為の論理であり,自ら「資金」を「作る」行為は後回しになっている.即ち,底流には依然として「企業依存」を当然とした考え方がある.確かに,企業に支援を求めることは必要であり,恐らく不可欠なことである.そしてその為にも,スポーツ支援による企業側の気付かない様々なブラインド的効果を明らかにし,それを企業側に理解させることは重要なことではある.

 しかし,「働かざるもの食うべからず」ではないが,競技団体やチーム,選手はまずやるべきことをやってからであろう.その為にはまず「企業スポーツ」に対する考え方を改めることである.そもそも「企業スポーツ」という体制は世界的に見れば,非常に恵まれた環境で,独特な形態であり,更にあくまで「一過性の経済的所産にすぎない」という側面も持っているということを忘れてはならない.「仕事に時間を取られることなく競技に没頭できる」という状態や,「企業が支援してくれる」という考え方を「常識」とする感覚自体を改めていくことである.

 国際競技力を高めたい,その為にも競技を活性化させたいと真に願うのは「企業」ではなく,選手や競技団体自身であろう.それならば,「頼る」のではなく,当事者自身でできることをまずやるべきである.これだけ「企業」の撤退が進行する中,現在国内にどんな時も「ファンサービス」を忘れない選手や自ら地域等に自らスポーツ教室を開催したり,公演をしたりする「実業団」現役選手はどれ程存在するのか?又集客活動に貪欲な競技団体はどれだけ存在しているのか?選手も競技団体もまだまだ切迫意識,危機意識が不足しているし,多くの糊代を残しているといえる.このように見ると,選手や競技団体自身でやれることのほうがむしろ多いのではないだろうか.極端にいえば,これまで助けてくれていた企業を今度は「スポーツ」が助けるぐらいの勢いとエネルギーが必要ではないだろうか?

 まずは「常識が常識でなくなっている」状態,「豊かさ」に麻痺した状態から脱却することである.そして選手,チーム,競技団体には,三位一体となって自力で活路を切り開いていくという「開拓者精神」が必要である.こうした風潮を「常識」や「普遍の真理」として定着させ,「依存」構成から成る自立世界ではなく,真に自立した世界を作っていくことである.又一方では,スポーツに対するニーズが近年非常に高まり,学校,企業に依存しきった世界では対処しきれなくなってきているという別側面からのニーズも存在しているのである.

 このように自立の精神とそれに基づくシステムを持ったとき初めて「企業」や「行政」と対等な立場になり,「魅力ある世界」になってくるのではないだろうか.単純に考えれば,やはり「魅力ある世界」にはいろんなモノ,ヒトが集まってくる.サッカーW杯はヒトを含め,様々な組織にとって非常に魅力ある世界として映っているのである.

 支援を受けたり,依存したりしてはいけないということではない.最終的には様々な組織との助け合いの関係,すなわち組織間連携によって熟成されていくことは確かである.しかし,今の選手やチーム,競技団体と「企業」との関係は「持ちつ持たれつ」,「ギブ・アンド・テイク」の関係ではない.前者が後者に「持たれっぱなし」の「依存」偏重の関係である.企業という組織にしろ他の独立組織にしろ,いつまでたっても自立のできない組織に関わっている程余裕はない.企業はいつまでも「甘えん坊息子」の親ではないのである.親であったとしてもいつまでも親子の関係ではいられない.自立しなくてはならない.そして大人と子供の関係から,大人と大人の平等な立場にいる関係,すなわち「依存」関係から「信頼」関係に変えていく必要がある.

 このことは確かに「即時移行」という点では難しいし,幾つかの段階を踏む必要がある.しかし,「依存」を前提とした働きかけや段階づくりではいつまでも変わらないということである.「自立」と「開拓」の精神を一貫とする「新しい血」が通った状態やそういった意識状態のもとでの取り組みや活動が必要である.そしてそれらが「魅力ある活動」であったり,更に「魅力ある世界」へと結実していくものであるならば,自然と多くのモノやヒト,そして組織が寄り添ってくるのではなかろうか.少なくとも「時代の流れ」,「経済の流れ」といった場当たり的なマネジメント構造ではなくなる.

 このような視点で捉えていくと,先日廃部の記者会見をした「富士フィルム」の会見内容を企業の「エゴ」と捉える視点や現在しきりに行なわれている企業説得運動には若干の疑問が残る.

 「富士フィルム」廃部における担当役員の会見内容は,バレー部を「子供」としてではなく,常に「大人」として見てきたが,結果は「子供」でした,もしくはお付き合いのできない「大人」でしたということを暗示するかのような内容であった.

 この会社におけるバレー部の位置付けは,開発や販売と並ぶいち業務として認められた独立した存在であり,それゆえ選手は全て社員であって,「プロ」は起用しなかったという.非常に一貫した明確な位置付けである.この為,今回の廃部は業務に成果が得られない為の「一業務の廃止」というスタンスである.社内求心力の為に作ったバレー部が現状のままでは逆に「なぜ成果のない部署が残っているのか」ということで「社内離反」を煽る可能性もあったのかもしれない.

 ここでは,バレー部は「子供」でも「神様」でもなかった.即ち「聖域」ではなくいち「領域」であった.よって会社側の論理としては非常に一貫しており,筋の通ったものといえる.特に象徴的なのは,この会社が一方ではサッカーW杯の公式スポンサーになっているということだ.そしてその理由も「W杯は世界にブランドイメージを高める狙いがある」と非常にグローバルな視点で捉えている.今回,一島国のしかも人気の低迷しかけている競技のチームをひとつ無くし,更にそれによるイメージダウンを差し引きしてもW杯スポンサーの方が圧倒的に効果が高いと判断したのであろう.

 確かに全ては企業側の論理で片付いてしまっており,スポーツの文化的論理の入る余地がないままにことが進んでしまっていることは非常に悲しいことではある.しかし,本来「領域」であるはずなのに,「聖域」という周囲の位置付けに甘んじ続けてきた節が,バレー部運営において,至る所にあったのではなかろうか?こうした「廃部」への過程構造は何も根拠のないところから生まれた結果ではなく,企業側に「依存」し続け,又企業側の「バブル」という論理に乗っかり続け,更にその間スポーツの文化的論理というものに一切触れてこなかったことの積み重ねではなかろうか.即ち,「企業スポーツ」という偏った構造自体が諸刃の剣のようなものであったともいえなくはない.今までは,企業の論理に乗っかっていたけど,それこそ都合が悪くなると突然これに「同乗できない」と,企業側を「エゴ」呼ばわりしたりする風潮は如何なものであろうか.これこそ逆に「エゴ」ではなかろうか.

 もうひとつの事例は,「企業スポーツ崩壊」現象に何とか歯止めを利かせようと全体的にひとつの風潮となっている「企業説得運動」についてである.確かに企業にスポーツを支援することの価値をもう一度考えてもらうという意味ではこうした研究や運動は必要ではある.そしてファンや周辺組織などが復活への運動を起こす分には,大いに賛成である.

 しかし,当事者までもがこれを主流としていては,結局は「依存」構造に依存するということであり,根本的な解決にはならない.他力本願ではもうどうにもならないのである.過去の財産をもう一度あら捜しし,再びこれを「使う」という行動に時間を費やすより,自力本願で新たな魅力を「作る」という具体的行動に出る方が優先であり,より効果的である.すなわち,後手に回り,企業に「助けて」もらう為のツールの開発に専念するのではなく,チーム自体,競技団体自体が自力で立ち上がっていく為のツールをまず開発していくことが優先であろう.少なくともそういった姿勢が必要である.

 これまでの視点をまとめると,「企業スポーツ崩壊」という現象からは,企業という親的存在から自立し,自ら考え行動していこうとする意識づくりが一方では求められる.しかし,もう一方では「生涯スポーツ」の高まりという現象から企業,行政等周辺他組織との連携をもとにした従来の二極構造に頼らない新しいシステムづくりが求められている.「自立」と「連携」とこれらふたつの一見矛盾したニーズに並行して応えて行かなくてはならないところに現状の困難さがあると思われる.しかし,こうした矛盾したふたつの事象をバランスよく調整していくことは,森羅万象,他の全ての分野・事象における高次元での「自立」を確立する際の共通の宿命ではなかろうか.

 例えば,教育やコーチングという事象において演繹して言えば,生徒や選手に「自主性を育みながらも信頼・依存関係も促していく」ということは微妙なバランスの上に成り立っており,その調整は教師やコーチの手腕に委ねられるといっても過言ではない.これと同様に,現在マネジメント分野において必要なことは,極端な「関係」構築に偏重した状態を修正し,コーディネイトしていくといった「バランス」の修正作業である.

 但しこうしたことは急進的に達成できるものではなく,漸進的なものである.多くの時間をかけて辛抱強く進めていくしかない. 以下こうした視点のもとに展開すべき研究や実践内容について触れる.

〜「底辺の拡大」ではなく「底辺の拡充」を〜

 本稿では,次の段階として具体的にマネジメントについて触れる.「自立」と「開拓」の精神のもと,今後「魅力ある世界」を作り上げていくには,最終的なヴィジョンはどのようなものかを明確にする必要がある.但しそれは数年先のヴィジョンではなく,Jリーグ百年構想ではないが,10年,20年単位での長期的展望からのものでなくてはならない.その上で,現在のマネジメントにおける問題点が決定される.しかし,最終的なヴィジョンはもはや日本における社会状況からほぼ決定されている.

 少子化・週休5日制による学校運動部の低迷や職務構造や経済状況の悪化による職場・企業スポーツの衰退を背景に,スポーツ環境が人々の日常生活圏域である「地域」においても構築していかなくてはならないことはもはや周知の事実である.昨年,「スポーツ振興基本計画」が出されたということが事の重大さを物語っている.

 こうした背景を受け,バレーボールにおいても今後は,スポーツ・フォア・オールから競技スポーツへの一貫した仕組みを制度化・体系化していくという長期の施策が必要となってくる.これは,統括組織に限らず現在撤退の相次ぐ「実業団」チームが,今後生き残りを掛けたマネジメントを行なっていく際にも非常に大きな課題になる.

 欧米に目を向けた場合,国際競技力向上を推進する組織は,大抵こうした仕組みが整っている.ナショナルレベルにおける強化・支援体制の充実も勿論ではあるが,何よりも「スポーツ・フォア・オール」の精神をモットーに,裾野となる多様なレベルでの充実が見られる.そしてそれらは,「トップリーグ」へとしっかり目が向いている.この充実体制の中では,ジュニアからトップまでの一貫指導システムというのもその構成要素のひとつに過ぎず,レクレーションレベルやシルバークラスにおいても「トップリーグ」への愛着は大きい.こうした底辺や裾野の「縦横への広がり」とこれを一気に惹きつける「トップ」の存在,こういった重層かつ有機的なシステムが欧米を常に「スポーツ先進国」足らしめていると考えられる.

 フランスの1998年サッカーワールドカップにおける優勝を「フランスサッカー20年の歴史に依る」とエメ・ジャケ元監督は言う.こういったシステムができあがっていくには現場における力強い主体性と大きなエネルギー,そして多くの年月を要するのである.

 ヨーロッパにおいては,国民のスポーツ活動の基盤は,大抵が生活圏域と密接に関わる地域スポーツクラブが中心である.もともとの発生源が「地域」や「市民」である為,その生成過程も志向や年齢等,多様性を統率していくことにある.この為,トップ強化に偏ったマネジメントは行なえないが,長い年月を掛け下から着実に横に広く,縦に長い堅固なピラミッド構造が作り上げられていった.即ち,ヨーロッパのスポーツ活動における重層ピラミッド構造のシステムは,常に「地域」や「市民」のニーズと密着した形,もしくはこれが先行した形で,自然な流れの中でできあがってきたといえる.地域,地区のリーグ,そしてナショナルリーグからプロ化へ,といった流れが「下からの主体的な働き」(地域等,現場の担い手)によって系統的に促されていったのである.

 こうした「下からの主体的な働き」が生成されてきた更なる背景には,ヨーロッパにおける長い歴史の中で脈々と受け継がれてきた「キリスト教」の精神とそこで培われてきた民族的性質が大きなバックボーンとして存在している.歴史的にヨーロッパの国々(アメリカもその限りではないが)というのは,政において常に住民・市民が主導で動いてきた(これには勿論「宗教」の存在が非常に大きなウエイトをしめているのだが).例えば,「市民革命」や「宗教運動」というのはその最たるものであり,ここでは「自由」・「平等」・「博愛」が常に住民等の自らの力によって勝ち取られてきた.つまりここの世界では,正に「血と汗と涙」によって自らの社会を築いてきたという大きなバックボーンが存在している.地域や住民,国民の主体性がナショナルレベルのシステムを大きく左右してきたのである.産業革命時代の用語を借りれば,「下からの近代化」的な動きである.

 こうした「下からの近代化」的な動きが国全体の流れとしてスポーツの分野にも大きく影を落とし,「下からの主体的な働き」を育成しながら「住民主導」によるクラブスポーツを醸成してきたと考えられる.このように,欧米における充実したスポーツ体制も一朝一夕に出来上がってきたものではなく,ここに辿り着くまでには,深く長い歴史の営みが存在しているのである.すなわち「地域スポーツクラブ」や「スポーツ・フォア・オールから競技スポーツの一貫体制」というのは,欧米人のアイデンティティの証ともいえる.

 しかし,近年日本のバレーボールにおけるマネジメントでは欧米の「歴史的営みによる所産」から「歴史的営み」を切り離し,「所産」だけを取り入れようとする非常に短絡的なケースが多々見受けられる.

 例えばヨーロッパやJリーグが一貫指導システムという長期的な視野のもとでマネジメントしているとなると,そのシステムだけを取り入れる.又プロリーグが各国で立ち上げられれば日本も立ち上げる.しかし,これらはどれも単発で,今後の「魅力ある世界」構築においてどういう位置付けで,他とどう有機的な繋がりをもち,バレーボールの普及発展にいかなる相乗効果を生み出していくのかが非常に不明瞭であった.これでは所詮真似事である.ヨーロッパにおける一貫指導システムにしろ「クラブスポーツ」にしろ,非常に有機的なシステムというのは正に「氷山の一角」であり,先程述べたようにその根底には途方もない歴史的営みとこれによって培われてきた巨大なバックボーンが存在しているのである.

 それでは日本の場合はどうなのであろうか?これまでに何が培われてきたのであろうか?歴史的に見れば,ヨーロッパとは逆に常に外界からの刺激や圧力があって初めて政が「動い」てきた.それも「上から動いていく」という官僚的特性がある.例えば,明治維新にしてもきっかけは「黒船」の侵入,高度成長にしてもきっかけは敗戦によるアメリカの進駐,更に現在における有事法制の制定にしてもその限りではない.

 そしてこれら全ての共通項は当然の如く常に国家機関主導であること,つまり「上からの近代化」的なマネジメント(明治維新における実際の政策にもあったが)が完全に根を下ろしている.よって,欧米のように「地方分権から中央集権体制へ」という流れではなく,「中央集権体制から地方統括へ」というマネジメント特性をもつ.こうした特性が醸成されてきた背後には,常時他国と隔離された島国であること等地理的条件から来る「外圧への危機意識の低さ」や「受容的,忍従的特性」といった国民的特性と,それに伴い,常に急な外圧に対し迅速に対処することに迫られてきたという歴史的過程が存在する.

 こうした国全体の構造はスポーツの世界,そしてバレーボールの世界にも完全に影を落としているといえる.「中央集権体制から地方統括」という構造は,バレーボールにおいては「国際競技力向上・強化至上主義から地方分担制度」といった封建的構造となって実体化している.これは即ち,選手においても,統括組織においてもトップ層の強化と潤滑(この場合,各種ナショナルチームとJVA)に権力が集中し,末端や地方(その他多様な志向,レベルのチームと地方協会)には裁量権はなく,トップ維持のツールとした視点のもとで統治されている現状のことを指す.

 又,実際にVリーグから企業が撤退し始めて,初めて動き出す有様や何事も「上からのお達し」によって進んでいくマネジメント.例えば,Vリーグの生成過程はその最たるものであろう.ヨーロッパにおけるプロリーグのように需要の高まり(国民・選手等の熱烈な働きかけ等)により,自然な過程を経て造られたものではなく,サッカーに影響を受けたJVA主導で,口車にのった企業が合わさって「取ってつけた」ような形で立ち上げられたものである.しかし企業,チーム,選手,観客,ファン,一般住民等を一貫するような軸のない形でできたものは必ずどこかで破綻を来たす.

 こうした「封建的構造」が形成されてきた背景には,確かに日本のスポーツが学校・企業スポーツ中心であったことも挙げられる.ここでは「部活動」と「実業団」が連結することで,競技スポーツのシステムが「ジュニアからトップまでのピラミッド体制」という形で,まず先んじて確立してきたのである.しかし一方では,その他「末端や地方」はほぼ野放し状態でありそのシステムの中に直接は組み込まれてこなかった為,体制としては非常に「縦長で横幅の小さいピラミッド」である.

 6人制,9人制,ソフトバレー,シッティングバレー,ビーチバレー,ママさんバレー等種目数も多く,また志向性の幅も広いバレーボールでは,こうした縦長のピラミッドが幾つも存在している.しかしそれらは何らかの有機的な連携関係をもって,欧米のように一斉に同じ方向,すなわち「トップ」へ向いているわけではないのである.個々に乱立しているだけの状態である. 6人制と9人制は対立し,種目に多様性はあっても志向性や年齢等に応じた体制は整備されていない.このような無機的かつ希薄な繋がりはVリーグにおける観客層や動因数に大きく反映されている.観客層は極一部の人々に限られ,年齢,目的志向等における多様性に乏しい.又,「素人」観戦者が多く,「玄人」観戦者が少ない.こうした多様性の乏しさは直接観客数の低迷にも結びついている.

 即ちJVAによる画一的で非常に的の狭いマネジメントの対象枠に当てはまった人々は正に一部であり,そうでない人々が大部分であることが伺える.このように見ると,ナショナルチームやVリーグ,そしてJVA等「中央集権」組織は正に石垣のないお城であり,「砂上の楼」である.

 かつて,経済成長とオリンピック開催,実業団の隆盛期で日本全体が「競技スポーツ」万歳の熱気ムードで湧き上がっていた時の視点からすれば,学校―企業スポーツ体制は学校を礎とし堅固で磐石なシステムであった.しかし,学校,企業が衰退し,「生涯スポーツ」が台頭してきた現在の視点からすれば,日本のバレーボールシステムは正に「砂上の楼」である.そしてその「楼」が今まさに音をたてて崩れ去っている.何故下からの強い働きかけがないのか?それは他のあらゆる組織が有機的に上へと繋がっていないからである.連携の媒介物は,「カネ」だけで,「ヒト」.「モノ」,「情報」は度外視されている.

 しかし,問題の根本は学校・企業型のスポーツ体制ではない.これは,日本独自の型であり一種の文化といえるものであろう.問題はふたつ.ひとつは統括組織側の自堕落かつ安穏としたマネジメント意識である.経済効果という一過性の「甘い汁」に目を奪われ,先見的視野と向上的精神を持たなかったことであろう.もうひとつは,社会,経済,教育,あらゆる側面で情勢が変化してきているにも関わらず,マネジメントの視点が変わらないということであろう.即ち「砂上の楼」である状態に気付いていないことである.

 現在,確かにJVAでは近年みる「スポーツの地域への移行化」や「生涯スポーツの高まり」を受けてか,「底辺の拡大」が専ら叫ばれている.しかし,底辺を「拡大する」という視点は従来と変わらぬ視点であり,何ら変化は期待できない.「拡大」とは即ちJVA登録人数の増加であり,それはJVA登録料収入増加に伴うトップ強化費用投資の増加である.「カネ」の拡大に過ぎない.

 視点が「底辺とトップの有機的な連携」にあれば,今取り組むべきは,「底辺の拡大」ではなく,「底辺の拡充」であろう.というのも先程も「ピラミッド」の乱立ということで述べたが,封建的,排他的マネジメントの片隅では主体的な立場から確立されてきた世界も多く存在する.それは,ママさんバレーであったり,「一般」と類される「クラブ」であったり,又同じ学生でもいわゆる「学連」以外にも「同好会リーグ」やその他専攻学毎に独立した組織がいくつもある.こういった潜在的な組織,遊離した組織は恐らく至る所に存在していると考えられる.

 確かに学校・企業スポーツの崩壊によってこれまで顕在的に存在していたもの(学校,実業団チーム)は失われつつある.しかし潜在的なものにものに視点を移せば,学校・企業スポーツの遺産と恩恵は至る所に存在している筈である.現在においてこそ破綻を来たしているものの,これまでのバレーボール体制によって培われてきた土壌は非常に広く,深い.

 今後はそういった潜在する資源を見極め,先見の明をもってこれらをどう有機的に組み合わせていくかが重要である.拡大させても受け皿がないのである.ならば「底辺を拡大」していく前に,すでに潜在的に拡大した「底辺」をどう「拡充」させていくかが優先である.バレーボールにおいて,スポーツ・フォア・オールから競技スポーツまの一貫マネジメント体制を築いていくには,乱立するピラミッドをどのように有機的に連携・統合させるか,そしてそのためには「ヒト・モノ・カネ・情報」といったマネジメント要素を如何に駆使していくかが大きな課題として考えられる.そしてこのことは,統括組織が生き残る上でも,また「実業団」が今後生き残っていく上でも共通項として大きな鍵になるであろう.

〜統括のスリム化・地方分権制へ〜

 では,上記のように進めていく上で,バレーボールおいては具体的にどのようなことが考えられるのであろうか?

 現在,JVAは「Vリーグ機構」や「家庭婦人連盟」を始め,顕在的な組織を個別に幾つも統括し,個々のピラミッドから登録費を吸い上げる代わりに「JVA公認」という冠を与えている.そしてその関係はほぼ主従関係に等しく,JVAを保護する数々の規制によって契約が成されている.当然,ピラミッド同士の連携は希薄でこれらに有機的繋がりがないことは先程も述べた.このような構造は,日本の行政システムと非常に類似している.すなわち,政府と自治体との関係である.

 日本では,従来国民が等しくサービスを受けられるようにと配慮されてきた.これが,国の指示によって自治体は考えずにただ仕事をする「機関委任事務」制度である.この制度は,全国の自治体が等しく仕事をするようにと組織構成を全国画一にする必置規制であり,また地方交付税制度,補助金といった国が地方自治体をお金で縛ろうとする仕組みである.つまり,国の行政も地方自治体の行政も国会や地方議会の定めた法律や条例に則って進められるという建前的制度である.そして「機関委任事務」というのは,自治体は独自の判断をしてはいけないと定められた事務である.これによる影響は大きく,本当は自治体独自で判断できるはずの仕事でもいちいち国に仕事のやり方についてお伺いを立てる場合が多かった.

 つまり自治体の判断基準は,国がやっていいというかどうかという点が最重要で,やり方を指示してもらうまで待つということになりがちであった.極端な話,住民の要望があれば,機関委任事務であろうとなかろうと,まず国に判断を仰ぎ,やり方を教えてもらってから着手したほうが,国に言われたからやるという形で責任の回避ができる為,自治体としては楽であった.更にこれに補助金がくっつくので,もはや国のいいなりである.「べッドの大きさにあわせて足を切る」という判断が,平気で行われてきたといっても過言ではない.

 バレーボールに置き換えれば,こうした構造は正にバレーボール行政におけるJVAと他の登録組織体との関係である.例えば,JVAとVリーグ機構との関係について言えば,チーム独自の協賛社に対する各種規制や興行収入の無還元.又地方協会の分担金制度,登録費用の大幅増大の通達に対する地方の無力さ等.挙げれば切りがない.

 しかし,日本の行政では,近年みる社会構造の変革に合わせ,又失われていた地域の個性や風土を活かすという自治体の独自性を出す為に,「地方分権一括法案」等,地方分権改革が行なわれている.ここでは,国民として受けるべき最低水準のサービスは確保した上で自治体が独自性を発揮できるようにと,これまで国が地方自治体に判断させなかった機関委任事務制度を廃止し,自治体組織の硬直化を招いていた必置規制を見直し,又補助金も若干ではあるが見直している.こうした地方分権改革における理念としては,「国と地方の対等・協力の関係の構築」を掲げ,「地域住民の自己決定権の拡充」を図ることとなっている. 即ち,自治体は国ではなく,住民に向き合って仕事をすすめればそれでいいということに漸くなりつつある.国の方を向いて仕事をしていた自治体が,住民の方を向いて仕事をせざるを得なくなってきたのである.つまり,ベッドから足がはみ出すのであればベッドの大きさを大きくするというようになってきた.

 こうした「地方分権改革」は,大元のJVAが無機的に組織を「抱えすぎ」て,全体が有機的に機能していないバレーボール行政においても同様に必要であると考えられる.これによる効果は,恐らく統括を「崩す」のではなく「スリム化」するであろう.そしてこれまで上を向いていた各組織体は,否が応にも下を見なくてはならない上に,更に「分権」により「生き残り」が切実な問題となってくれば,他組織との有機的な連携は自然と生まれてくる筈である.極端にいえば,協会,連盟,リーグ等の独立採算であり,そこからの再統括ではなかろうか.どの道,下からの声やニーズと常に隣り合わせのマネジメントをしていくには,ある程度下の流れを放任する規制の緩和や柔軟な姿勢が必要である.そして後は,下から沸いてくるニーズによって自然に形成されてきた形を有機的に統合していくことである.

 よって,近年叫ばれている「地域密着型」のクラブ構築というものも,要は「地方分権」における統治の為の一手段であり,厳密に言えば協会が全面的に奨励をかけ,「上から」働きかけて行なうものではないのである.「上からの…」となる時点でそれはもう「地域密着」ではないからである.文字通り地域におけるニーズから発展し,下から形成されてきてこそ真の「地域密着」ではなかろうか.大切なことは「地域」との密着を呼びかけ,奨励していくことではなく,各種規制を緩和し,自由裁量を促していくことである.そこで,ある地域では「企業」が全面に出てくるかもしれないし,又別の地域では「行政」が牛耳ってしまっているかもしれないが,それらが「ニーズ」等によって生じたものであるならば,それが「地域性」であり,「地域密着」ではなかろうか.つまり,「地域密着を事業として奨励する」ということ自体は,本来は矛盾しているのである.要は自由裁量を促すことである.

 バレーボールが生き残っていく際の具体的な手段として,ひとつにはやはり種目,志向の多さという競技性とそこからくる競技人口(潜在的にも顕在的にも)である.これらを利用しない手はない.ここには「生涯スポーツ」から「競技スポーツ」までの繋がりが既にお膳立てされているのだ.

 もうひとつは,こうした競技性を利用し,分権化する自治体と連携していくことである.先程述べたように,自治体は,現在全てを自分たちで決め,判断していかなくてはならない為に当然仕事が多くなってきている.つまり,公的事業でも民間でやれることは民間に委託してやってもらおうとする動きも少しづつではあるが出てきている.例えば,自治体ではないが,国立大学の独立行政法人化なども行政のスリム化の一環であり,その典型例である.公的事業の民間資本導入に関する具体的な法制としては,PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)やPPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)などがある.まだまだ形としては定着していないが,いずれにしても自治体における「スポーツ振興課」との連携は,社会的背景やニーズからすると双方にとって非常に有益であることには間違いない.後は各地域における土壌との兼ね合いであろう.

 よって,今後の研究としてはそのような実際の事例を扱っていきながら,バレーボールを始めスポーツにおける新事業の可能性を探っていくことであろう.

2002/6/9